題名:由木音頭 由木音頭歌詞全体

♣ ♧ 由木地区の歴史・文化・民俗を歌い込んだ『由木音頭』

 はじめにお断りしておきますが、これは解説記事ではありません。散策した中での「私的メモ」です。
 多摩ニュータン造成後、八王子市に編入して昨年(2014) 8月で50年が過ぎました。その間に自然の姿は全くと言っていいほど変わってしまいました。

 最近、居住者の中から「かつての由木を見直したい。それを出身地とは違う、新しいふるさと意識に結びつけ、育みたい」という声が聞かれるようになりました。

居住者も年齢を重ねて周囲に目を向ける時代を迎えたことを意味しています。そこで、その声に応えるための一つとして《由木音頭》の紹介を試みることにしました。

 間もなく七月を迎えます。新暦のお盆時で、由木の各所で《由木音頭》が流れる季節でもあります。鉦、太鼓の音の響きに合わせて、大きな踊りの輪が広がっていきます。ぜひ、歌って、踊ってみてください。

 この音頭は、由木地区の縁の深いコンビによって作られました。作詞は伊東 文夫(大正2年生まれ。元由井第二小学校校長)、作曲は鈴木 猛(明治45年生まれ。元由木中央小学校校長)です。

 歴史・文化の分野では、地名や由来が常に諸説乱れ、熱い議論ダネになるケースが珍しくありません。今回も判別しにくい跡地とか、誰かに内容を確かめたい例もありました。しかし、それは上手に由木地区の魅力を織り込んだ《由木音頭》の位置付けを改めさせるものではありません。それをご承知置き願います。


平野 雄司
平成27年6月吉日

由木音頭歌詞解説

一、武蔵由木村(全体像)
二、由木村の名物
 ※(歌詞はありますが、曲の中では唄われていません)
由木は柚木、由儀と称されることがあります。諸説多く、地名を探る楽しみでもあります。由木郷(ゆぎごう)の名称は、古く南北朝から伝えられています。

 今の由木地区は、50年前に東京オリンピックが開催された昭和39年8月に八王子市へ合併されました。その時から、江戸期以来の鑓水(やりみず)、中山、上柚木、下柚木、越野(こしの)、堀之内、大沢、別所、松木(まつぎ)、中野、大塚の十一村は、村名を消しました。

「まゆ」は「繭」のこと。由木地区一帯は養蚕(ようさん)業が盛んなところで、由木音頭もまずその全体像を紹介しています。

三、(鑓水)
 鑓水は「やりみず」。国道16号線を控えた一帯で、昔は山肌に槍状の竹を差し込むと溢れんばかりの水が流れ出てきたといわれています。今は、東京都有形文化財の小泉屋敷近くにその痕跡があります。

甲州、信州、武蔵の生糸は八王子に集められ、古道を通って遥々横浜まで運ばれて行きました。
大栗川の源流は国道16号線辺りにあるとされていますが、今は多摩美術大学の一角に立てられている表示板が頼りです。

また南津(なんしん)鉄道建設のための着工地跡もあります。武相観音第十四番札所の永泉寺の本堂は絹商人・八木下要右衛門邸を移築したものです。

四、(中山)
 今から189年前の文政九年(1826)に白山神社境内から経文十巻入りの経筒や古い鏡などが出土しました。明治、大正年代にも発掘され、土器や槍等も出てきています。その歴史は約八百年前の「保元の乱」にまで遡れます。

この辺りは船木田荘内だったところで、高幡不動寄りの七生の平山地区も同じ荘内だったと解釈されています。静かな境内の木立の中で、そうしたことを想像するのも楽しいものです。
近くの民家前にはボランティアで皇帝ダリヤなどの花壇があり、季節を問わず散策を楽しめます。

五、上柚木)
上柚木は次の下柚木と共に、かつての柚木郷の本村でした。
 今の愛宕神社は、大栗川沿い〆切橋近くにあります。橋名の「〆切」とは神社の「しめ縄」から付けられたと考えられます。この川沿いの大きな栗の木の実が落ちて下流に流れるところから“大栗川”と呼ばれるようになったそうです。

六、(下柚木)
 大石定久は八王子北方の滝山城主、中山勘解由は定久の養子になった北條氏照の重臣。定久は得度のあと、叔父の僧・長純を開山として永林寺を建立。

天文十六年(1547)氏照は養父の檀那として一千人の僧侶を集め大法灯を催したと言い伝えられています。それほど由緒あるということで、今でもその格式を思わせるに十分な構えです。

氏照の頃は永麟寺でしたが、徳川家巡歴の時から永林寺に改められました。「麟」が北條家家紋に通じるのを嫌って、「林」にしたという説があります。

大石定久の墓があるほか、高台には柚木城趾があり、三重の塔等もありますが、観光寺ではないので粗相のないように。

七、(越野)
 普願寺は玉泉寺、導儀寺と共に越野の三寺として名を残しています。しかし、明治初年に廃寺となり、今はその跡すら残っていません。辛うじて古老の案内で家並みの一角で「この辺りが寺跡」という程度です。

もともと越野は堀之内から分村されたものらしく、慶長時代のご朱印には「腰之村」と書かれているそうです。

宗虎は永林寺建立の定久の子どもで、普願寺は宗虎が建立しました。屋敷跡は松木にあり、樹齢約四百年のサルスベリの木は八王子市指定文化財天然記念物になっています。富士見台公園にも近く、シーズンともなれば訪れる人が目立ちます。

八.(南大沢)
 昔の地名は大沢でした。今の八王子市街地に近い加住村に大沢という所があって、それと区別するために南大沢になりました。「こなや踊り」は後継者がいなくなり、見ることはできませんが、小田原北條に仕えた田中和泉守伝承のものとされています。首都大学東京のそばに八幡神社があります。境内のカシの木は八王子市指定天然記念物です。

鳥居は安芸の宮島の鳥居と同じ構えですが、気がつかないで通ってしまいます。
社殿は昭和五十年(1975)に昭和天皇即位五十周年記念として再造営しました。大学構内と合わせて散歩道にするのも良いでしょう。因みに祭神は応神天皇。例祭日は八月二十六日。

九、(松木)
 松木は「まつぎ」と読みます。この辺りには屋敷跡が多いのですが、多摩ニュータウン造成もあって一挙に痕跡をなくしたようです。浅間神社にその姿を留めたと言われるものがありますが、時代の変化に抗すべきものはありません。

すなわち松木七郎師澄、植松太郎兵衛、井草越前守並にその子織部などの屋敷があったところです。

同じ住むなら殿さまの屋敷みたいな家に住んでみたいという庶民の羨望の気持ちが伝わってきます。
下柚木の歌詞に出ている中山勘解由の子、照守と信吉は八王子城落城の難を逃れてこの地で身を隠したといわれます。

十、(別所)
 京王相模原線堀之内駅から徒歩7〜8分で蓮生寺と薬師堂に行けます。蓮生寺公園と隣り合わせの位置に蓮生寺があり、訪ねてみたいところの一つです。幔幕はその昔の七月二十二日の市に行われた相撲興行で使ったもので、菊のご紋が付いていました。薬師堂は天正十六年(1588)に火事で焼け、宝永二年(1705)に再建した古いものです。薬師木像は近くの長池から出現したと言われています。

蓮生寺の歴史は古く、一説によると源頼朝を身籠った常盤御前に腹帯を持って参上した僧・円浄房が創りました。後に円浄房は頼朝から別所に田畑一町歩を与えられました。

十一、(堀之内)
 「堀ノ内」は堀に囲まれた土地の意味で、館や城をイメージさせます。堀之内も由木氏などの豪族がいた所なのでしょう。
ここには江戸時代に今の神奈川県津久井の道志川で捕った鮎を江戸城まで運ぶための鮎道が切れ切れに残っています。その鮎を運搬する人々の中継所がありました。鮮度を落とさないようにと先を急ぐ人たちの様子が見える歌詞です。

 江戸、明治期の村名も堀之内村でした。新編武蔵風土記稿によれば当時の家数は八十軒、人口三百六十六人とあります。老中の土屋但馬守の領地でしたが、後に旗本知行地となりました。鎮守の森は北八幡神社です。

十二、(東中野)
 勝五郎の話は、小泉八雲の紹介で海外にも知れ渡っています。程久保の農民の家に生まれた藤蔵が亡くなったあと中野で勝五郎として生まれ変わったという話です。藤蔵は高幡不動尊、勝五郎は永林寺に墓地があり、特に日野市民の郷土を愛する人たちが〝生まれ変わりの勝五郎話“のイベントを重ね、継承に努めています。

民俗話に目籠、あるいは“めかい”の話がよく取り上げられますが、由木村では古くから目かご(めかい)が作られていました。
「東中野」の地名は、江戸期の「中野村」を明治12年に当時の南多摩郡内の同名村と区別するために改称されました。南寄りの地域が松が谷になります。

十三、(大塚)
 曹洞宗・清鏡寺は武相観音礼所第十番の札所です。

本堂は郷土の歴史的人物、林副重宅の母屋を移築したものです。この辺りは塩釜谷戸とも言われました。
 境内の観音堂の十一面観音像は“御手の観音”として有名で運慶作。東京都指定文化財になっています。寺伝は長寛二年(1164年)に安置されたとしています。

豊臣秀吉の小田原攻めの折に出された、同村の安全を指示する禁札も残されています。歴史の古さを感じさせますが、最近は伝説の身代わり不動を人形劇にして活動する市民もあり、新しい息吹きを忘れていません。帝京大学に隣接していて、学生の姿も見受けます。


文:平野 雄司
参考資料:「由木音頭」(由木音頭保存会)
編集・歌詞デザイン:南大沢を知ってほしい会

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