♦由木の母なる川「大栗川」
かつて、大栗川旧流は山間を縫うように、ぐりぐりと曲がりながら流れていました。水源を鑓水に発し、上柚木、下柚木、越野、松木、堀之内、東中野大塚と旧由木村の中央を貫き、多摩市に入り、やがて多摩川に合流します。 全長およそ16km、高低差は75mほど。
水はきらきら透き通り、魚が泳ぎ、草が茂り、夏には蛍が飛び交っていました。 川は、たくさんの小さな流れを呼んで、ちょうど木の根のように張り巡らされています。人々はこの川に生まれ、この川を命として、時には祈り、時には恐れて生きてきました。
大栗川は、昭和61年全改修事業をおえて一級河川に変貌しました。 災害はなくなりましたが、同時に大栗川への人々の関心は薄れています。 川もまた、人とのかかわりを避けるかのように固い表情で、ただ流れるままに流れています。
もう川と人との会話はなくなってしまったのでしょうか・・・
いいえ、誰か一人が声をかければ、きっと人と川との新しい世界が広がるでしょう。
♦「大栗川」の名前の由来
1『 大きな栗の木 』説
◆ むかし、鑓水川と中山川の合流する辺りに栗元というところあった。そこに栗の木があって、実を結ぶ頃には鑓水川に落ちて 流れていった。よってこれより下流を大栗川と呼ぶようになった。
(『新編武蔵風土記稿』中山村の項参照 )
2『 真慈悲寺の大庫裏 』説
◆ むかし、宝蔵橋付近に真慈悲寺という寺の大きな庫裏が 建てられていた。 その傍らを流れるために大庫裏川と呼ばれるようになった。
(『武蔵名勝図会』多摩郡之部 巻六 落合村の項参照 )
3『 大くねり 』説
◆ むかし、関戸村に「大庫裏」という小名があった。 川はそこで大きくくねって向きを変える。 そのため宝蔵橋より下流を、「大クリ川」と呼ぶようになったとか。
( 相沢伴主(1768 生まれ相沢五流長男)著『関戸日記』参照 )
♦「大栗川」と人々のいとなみ<
1『 生業 』 ( 堰普請・田植え・目かご造り・藁仕事・水車 )
2『 遊び 』 ( 川遊び・魚とり・蛍狩り )
3『 神さま 』 ( 川浸り・七夕・雨乞い・水神様・水天宮 )
◆ 人口 5,558 人・816 世帯(昭和 13年時)
◆ 水田=約 180 町歩(由木全体)
♦「大栗川」と災害<
◆ 昭和 29 年 9 月 台風第 14 号大接近 (低地部が浸水)
◆ 昭和 33 年 9 月 狩野川台風が襲来 (大栗川下流部大浸水)
◆ 昭和 41 年 6 月 台風第 4 号が襲来 (大栗川全域大氾濫)
◆ 昭和 47 年 7 月 豪雨・台風 6 号 .12 号が襲来(床上浸水多数)
(『大栗川河川改修報告書』参照 )
文:加藤 弘男
編集・写真:南大沢を知ってほしい会